昭和五十六年六月十七日 朝の御理解


御理解第七十八節「神の気感に適うた氏子が少ない。身代と人間と健康とが揃うて三代続いたら家柄人筋となってこれが神の気感に適うたのじゃ。神の気感に適わぬと身代も有り力もあるが壮健にない。壮健で賢うても身代をみたすことがあり、又大切な者が死んで身代を残して子孫を断絶してしまう。神のおかげを知らぬから、互い違いになってくる。信心して神の大恩を知れば無事健康で、子孫も続き身代も出来一年勝り代勝りのおかげを受ける事が出来るぞ。」


 人間の難儀の要素というものを、ここには掲げながらそこから脱却しそこからおかげの受けられる手立てを教祖金光大神は教えておられる。いわゆるこの世は苦の世であり思うようにならぬのが浮世であるという、まあそれを実相のように思うておる。それを本当の事のよう思うておる。そういう思いをアップしてそして、親の代より子の代、子の代よりも孫の代と繁昌していく道をここに教えようとして居られる。為には一番初めにありますように、神の気感に適うた氏子が少ないと仰せられます。だから神の気感に適う生き方をお道の信心によって体得させてもらい、それを伝えてゆく。しかもそれが三代続いたら、いよいよ神の気感に適うた氏子として子々孫々繁昌していくおかげが受けられるというのであります。そこんところを教祖はここにおっしゃっておられますように、兎に角どんなにお金があっても、財産が有ってもそれを残して死んでしもうたら、元も子もないような感じですね。そこに釣り合いというものがない。だから人間と身代と壮健これが足ろうて、しかも三代続いたら、為には神の気感に適うた信心。神の大恩を知らぬから互い違いになると。神の大恩を知れば無事健康である。ね、だからこれは、知っただけではいけないのである。神の大恩を聞いたら、成る程と分かるんだけどね。分かっただけで知っただけではいかん。本当に知ったという事は、大恩が分かったらそれに報い奉ろうとする神恩報謝の心が生まれてきて初めて神の大恩が分かったという事になる。大恩は分かっとるばってん、それを思うといますというだけではいけん。いわゆる、神恩報謝の生活が出来るから、子々孫々にも続いていくのである。
 だから先ずは、ひとつ神の気感に適う氏子を目指さなければならんという事になりますね。これはまあ、原さんのお宅の事だけではございませんけれども、昨日は原さん所のあちらの宅の恒例の謝恩祭がございました。もう本当にもう本当に年々歳々もう兎に角お宅祭りを仕える為には、前々から心を使い、心を砕いてもう兎に角有り難いお祭りが仕えたい、それまでまあ子供達がその気になってくれればよいけれども、まあお祖母さんとしてはその思いが、こりゃあこのままほおからかしておいても出来るだろうかというような心がいやが上にも心が募る。それでもここで言うたんでは、何時も失敗だから言わずに黙ってそれこそ神様のおかげで仕えさせて頂かねばとそういう発表を、此の頃美登里会の時でしたかねなさいました。だから私が申しました。「原さん、あんたはね、見栄があるからだよ」と私は申しました。よそへんなこんなお祭りがあるからね。家あたりもあんまりお粗末なこつじゃ神様に対してご無礼じゃなくてから、それじゃやっぱ云うならば、日頃の信心に物言わせるようなお祭りが仕えたいのだけれどもね。一つの見栄があって心はいらいらするといったような事ではないだろうか。もうそういう事はどうでもいい。神様はあるがままに、なるがままにおかげ下さる。こちらが一生懸命に年一回の謝恩のお祭りだからそのいわゆる謝恩の心。今日の御理解の謝恩の心なんです。神の大恩が分かった。神様のおかげがなからなきゃ今日の原は無いと思いゃ思う程、そうせずにはおれないというのがお祖母さん。こりゃお祖母さんだけじゃない、まあ一家の者の思いでしょうけれども、思いが違う息子たちと自分という。それでまあ、ああもせんならん、こうもせんならんと言いもし思いもするけれども、それを言うたり思うたりしたんでは、そういう心がどこから起こってくるかというと、一つの見栄である。信心の見栄という。だから悪い事ではないよ信心の見栄ですから。けれどもやはり、それでは本当のおかげにゃならない。
 それこそ神様のおかげで出来たというお祭りが仕えたいと今度はそういうお祭りが。ほほうそんな気になると、こういうお祭りが仕えれるんだと思う程しのお祭りでした、昨日のお祭りは。充実してました。御参拝もいつもより思いもかけない方達が沢山お参りがあっておった。もう本当に神饌お供物なんかでも見事なお供えがしてございました。もう第一有り難いなあと思ったのは丁度お祭りが始まって、私が玉串を上げようとした時に停電になった。私は合楽のあの御理解というものがね、本当に生き生きと息づいて居る。そしてそれが、晩の信者の家の宅祭りにまでも、その朝の御理解をはっきりとこう何ちゅうかたたみかけて教えようとなさっておる働きを感じたね。ところが、神様の方にも御霊様の方にも、明々とローソクの光が立って居りますから、もうそれこそなんというでしょうかね、不思議なまでのね静けさというか深渕さというか、あの丁度この遷霊をしたり遷座を申し上げる時に全部電気を消して御神燈だけでするでしょう、あの感じでした。私が玉串を上げようとする時、もう本当にまあ、云うなら他所で見る事ができないような不思議がそこにあった訳お祭りが。玉串を上げて席に着いたら電気がついた。神様の御演出にはただただ恐れ入ってしまうようなお祭りでしたが、どうしても自分の我情我欲が入らない神様のおかげで出来ましたというもんでなからなきゃ、これはお祭りだけの事じゃないけれども今日はです、神の大恩が分かればと、分かるということはね、話を聞けば天地の大恩でも分かる。そうですなあと。先達から金光さまの、今の金光様のお話しを伺いましたね。十五分間にわたって、岡山美術館館長と対談をなさる。金光教の信心を、いわゆる御自身の信心を語られた。もう金光様の御信心のシンは何時も「お世話になって」という事である。総ての事にお世話にならなければ人間は立ち行かんのだと。そこのところを分かったらね。例えば一つの会社にたとえると、社長さんがご苦労さんというて給料を渡す。社員の方たちが有り難うございますと言うて、お世話になり合うた事をお礼を言い合うていく生き方がまあ金光教の信心だというのです。確かにそうです。ですから金光様が仰せられる一切の物にお世話にならなければ立ち行かない。ところが、実際の人間のまあそれこそ、人間の我情我欲が渦巻いておるというか、どろどろしたような、この、この世は苦の世であり実際思うようにならないのが、浮世であるという人間の生活というかね、生きざまの中にです。本当に有り難い有り難いとお礼だけ言うていけれるような事が出来るだろうか、社員は少しでも給料を余計に貰いたいと要望する。ね、社の方では成るだけ給料が安いようにとこう多い少ないでいうなら闘争が起こる。それが現実である。お前は会社のお陰でお世話になっとるぞ、そげなこつがあるもんか会社は社員がおるから立っとるのじゃないかといったようなものではいけないというのである。お互いがお世話になり合うておるという事。私はあのお話しを頂きながら、本当に合楽の信心の素晴らしいという事はね、それが自ずとそうだと合点させられる信心実験をさせて頂いておる事である。先ず第一にね、云うなら教祖様のみ教えの中に最近発表されておる御教えの中に、人間は土から生まれて土に帰っていくのだというような御教え五、六節位ある事が分かったんですけれども、合楽でもこれを何時も合楽理念を説くようになってから、お話しを頂いて、人間は土より出でて土に帰っていくから、その道中とても土の心にならなければいけないと説く訳です。合楽の素晴らしいのはそこだと思うです。そく人間は土から出でて土に帰っていくのだと分からせるだけではなくて、だからその道中とても土の生き方を身につけていくのが一番、天地の道理に適うた生き方だと教える訳です。いわゆる成り行きを尊ぶとか黙って治めるとか、土の信心という事が云われる訳。そこになら、成り行きを尊ばせて頂くという事を、自分の信心の信条としとればです。例え会社の給料が安かっても勿体ないで、成り行きを大事にしていく事になるでしょうね。そして実意、給料が安いからこれ位にしとこじゃなくて、それこそ体はちびるものじゃないから、一生懸命会社の為に働く。働くから会社もじっとしちゃおられん給料も賞与も沢山出るようになる。こんなに沢山もろうてよかろうかという事になって、初めてお世話になる実感というか、お世話になるいうならお礼の言い合いというものが出来るんだと合楽では説き、又皆さんもそこを実験実証しておられるわけでしょう。ね、だから神の気感に適うた氏子が少ないというのは、神の気感に適うという事は云うなら、天地の心を心とする生き方をする信者氏子にお取り立てを頂く事なんですね。それにはね、やはり勿論おかげを、なら昨日も原さんの所で申しました事なんですけれども、今、あちらの中心である、主人である原晶一郎さんが、死ぬか生きるかと普通では、けれどももう死ぬか死ぬかという事でした。親戚の方たちは葬式の準備をして集まってあるという程しでしたから、もう生きれる望みなんかない程しの事だったんです。それが、当時の椛目の信心によって助かった。ねもうそれから、何十年間信心を一家中で続けておられるその中にもです、それこそそのお祭りの最中に停電したように、真っ暗になるような事は何回もあったけれども、信心の光があかあかと燃えておったおかげで、そこに云うなら、ちゃあんとそれぞれに道がついた。そして今日の原一家一門がある訳ですね。そこになら神恩を感じた。神様の大恩を実感して分かった。だから一年に一回くらい感謝の、云うならば、お祭りをさせてもらわねばおられない。よそのあたりでは、それこそ金にあかして立派なお祭りをされるけれども、自分の家はそんな訳にはいけん。神様のおかげでそれでもやはり、人間の見栄というものがいらいらしたり、いろいろ思うてきたけれども、今年のお祭りだけはそれを言わんですむ見栄も自分の我情も我欲も振り捨ててまあ神様に向かわれた。不思議に子供達がその気になって呉れた。もう兎に角自分の思っておる以上にさっささっさと事を運んで呉れた。
 神様の働きちゃ有り難い有り難いでいうなら、数日間過ごされて昨日のお祭りであった。ね、いかに神の大恩を分かっただけじゃいかんという事がわかるでしょう。分かったらそれに応え奉ろうとする信心。ね、しかもそういう信心がですね。神の気感に適うた信心がです。子にも孫にも伝わっていく為に最近合楽で言われる、心行、信行、家業の行というものが家の一つの家風ともなるようなかげを頂け、昨日初めて中学校と小学校に行って居る二人の息子が居ります。が、お父さんと一緒に私の部屋に挨拶にやって来た。今までかつてこういう事はなかった。ね、どうぞ私の信心をこの子供達が受け継いで立派な信者にでもお取り立て下さい。そういう親の思い、願いが今日親先生がみえて居るからちょっと御挨拶に出らなんよという事になったんじゃないでしょうかね。そして今いうこれが原家の家風ともなるようなおかげを頂く為に心行、信行家業の行、家業そのものが行なんだ。心でなす修行というものは、それこそ加藤さんの話がここ二、三日出ますが、お互いが今、あなたが思うておる事をいわゆる、去年の加藤さんの信心は今を喜ぶという生き方に精進された。今年は一日千回の喜びという事であった。ですから自分の今を喜ぶという事が、自分の心がね、お客さんばどげなふうにいうちからごまかそうかとか、だまくらかそうか(だますの意)そお感覚、神様の心に適わない心が自分の心になっては今を喜ぶという事は出来んのです。自分自身の心を見た時に、はあ自分が考えとる従業員一人一人の上にでもこげな親心を以て思うておる。思うておる自分が有り難いのである。自分の心を見た時に、自分が思いよる事が本当に神様が喜んで下さるような事を思いよる。それだから、云うならば今を喜ぶ事が出来るのである。
 一日千回の喜びも又、自ずと出てくるのである。そういう意味に於いての心行であり、又次の信行というのは勤行だとこういう。いろいろ皆さんが朝参りをしなさるのは信行信心の一つです。というても、それだけで良いという事ではなく、朝に晩に云うなら、神様を拝むというなら御祈念、云うなら時間を切って決めて「さあ、御祈念ばい」とこう一家中の者が御神前に集まられるような行を、それが原家なら原家の家風になるような。
 昨日、秋山総代のかずえさんがお届けをしておられましたが、この勤行の事が言われるようになって、本当に夫婦揃うてまあ御祈念を夜だけでもしたいというふうな願いを持っておりましたら、ここ何日間か主人が主人の方がさあ夜の御祈念をと言ってご神前に座ってくれるようになりました。もう夫婦揃うてもう心ゆくまで神様を拝ませて頂く時にです、それこそ、いろんな問題も昼いろんな事があったが、あるにしましてもです、夫婦が心を揃えてご神前に向かってご祈念をしておる時に、何もないそれこそお礼の言い合える、お世話になりました、お世話になりましたと言い合える心の状態が開けてくる。だから確かにその総ての事にお世話になっとるからという事が、金光様のお話しによって分かった。分かったらそれが実感として行動の上に、又はその神の大恩が分かったなら、その大恩に対する神恩報謝の実働というのがなされて、実験が出来るのであり、実証が出来るのである。今度御本部参拝なさった方は皆さんも聞かれたでしょうけれども、昨日若先生が申しておりました、宮田という先生のお話があった。布教部長ですかね、そのお祭りの時間が十四、五分位延長する位に、延びる位に長い話をなさった。その中には合楽理念を語っておられるというようなお話しであった。同時に合楽で使っておる、云うなら実験実証を持って、実験実証を持って、ということを連発されたという。これは合楽だけしか言って無い言葉です。ああそれを聞いて有り難い事だと私は思わせて頂きましたが、云うなら、実験し実証するということです。分かっただけじゃ出来ん、それを実験してみなければいけんのです。だからそこに実証が生まれてくる。そこにお互いが有り難い有り難いと拝み合える、言えれる又、いつも自分の心を見て自分の心に合掌したい心も生まれてくる。そこに今を喜ぶとか、一日千回の喜びという信心生活が自分だけの事ではない、家庭中にそれが広がっていく。それがその家の家風ともなるならばです。それが親に子に孫に伝わって神の気感に適うた氏子であり、家庭という事になって、云うならばいよいよ子孫にも続きというおかげ、身代も出来というおかげにつながってくると思うです。  どうぞ。